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光明(こうみょう)杢とは?屋久杉の基礎情報
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虎瘤杢(とらこぶもく)とは|屋久杉の基礎情報|グラクセン
虎瘤杢の屋久杉一枚板虎杢とも瘤杢とも違う、虎瘤杢の魅力について今回はご紹介致します。
以前にもご紹介しましたが、今回素晴らしい虎瘤杢の輪切りを仕入れましたので、写真付きでご説明させて頂きます。
虎瘤杢の見た目は虎杢のように豪華な輝きを纏っています。 その輝きが四方八方に拡がり、狭い面積の中に詰まっています。虎杢同様に、光の当たる角度によって輝きの角度も変わります。
虎の名前の由来通り、虎杢と似て非なる存在の虎瘤杢ですが、虎杢との違いは5つあります。
1.狭い面積に密集する
20cm四方の中に杢が密集し、虎杢のように広範囲に入るのとは異なります。
虎瘤杢2.板目に沿って入るとは限らない
虎杢は板目に垂直に入ることが散見されますが、虎瘤杢は木口にも現れますし、板目に絶対に入るとは限りません。
3.杢の配列はバラバラ
また、2と同様で綺麗な配列の虎杢とは違って杢がバラバラな位置に点在し、その自然が創り出した美しい情景が見事です。
4.杢の形も様々
勾玉のような形や横長な形など、杢自体の形が多種多様です。 この一様ではない形こそが虎瘤杢の自然風景を楽しめる一因になっているように思えます。
縦や横に、様々な杢の形5.濃淡
輝きの中に濃い部分、淡い部分と自然のグラデーションが掛かっております。
又、屋久杉特有の油が染み出すことで艶やかさも加わることで、景色に奥行きが生まれ非常に美しい雰囲気を醸し出します。
濃淡が陰影を浮き彫りにし、美しさを際立てるそして、最も異なるのは瘤に杢が入っているという点です。 虎杢に似つつ、瘤に入る杢ということで虎瘤杢(とらこぶもく)。
虎杢よりも珍しい希少種ですので、屋久杉の虎瘤杢を見つけるのは至難とも言えます。
ましてや、伐採禁止・山からの産出禁止・競り終了という状況下ですので、屋久杉自体の存在価値が高まっていますので、貴重な日本の宝として後世に遺すべく大切にしていかないといけませんね。
虎瘤杢の商品については ⇒ コチラ
最近仕入れさせて頂いた虎瘤杢の自然木です。
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虎瘤(とらこぶ)|屋久杉の基礎情報|グラクセン
数多く存在する屋久杉の杢目(もくめ)の中でも、あまり聞きなれない杢目。
その一つが今回ご紹介する、虎瘤(とらこぶ)杢です。
GR53 虎瘤杢の屋久杉一枚板瘤の中に、虎杢(とらもく)が入っており、見る角度によって光が反射するのが特徴です。
先日ご紹介した泡瘤杢のように、切ってみなければ瘤の中にはどういった杢が入っているのか分からないので、正に偶然の産物です。
色味は若干ピンク色や薄いオレンジ色で、躍動感ある木目の動きが独特な印象です。
虎瘤杢樹齢千年以上ということだけでも十分魅力的ですが、こういった杢がその付加価値を更に高めています。
2021年3月で競りが終了してしまったので、既にお持ちの材木屋さんなどがこういった貴重な杢のものをお持ちでしたら、出会える可能性もありそうですね。
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泡瘤(あわこぶ)|屋久杉の基礎情報|グラクセン
屋久杉には、他の木材には無い特別な杢目(もくめ)が沢山あります。
今回は、泡瘤(あわこぶ)についてご紹介していきます。
屋久杉の瘤(泡瘤)瘤とは木の側面に出来る膨らみの部分を言い表しています。
屋久杉の泡瘤_詳細瘤の発生場所は根っこや木の中腹部など様々です。
瘤の発生原因は、樹に菌が入り、抗体が菌と戦うことで出来るとされています。人間で例えると、擦り傷の後のかさぶたのようなものです。
この瘤の重さが原因で倒れる樹も多く、特に中腹部に出来ると樹がバランスを取りづらくなり台風や強風などの影響で傾き、倒れるケースも少なくありません。
屋久杉だけではなく、ケヤキやイチョウ、アフリカのブビンガなどにも発生しています。
屋久杉の場合、”瘤”と呼んだり、”泡瘤”と呼んだり、どれが正しいのでしょう?
“瘤”とは先程、説明した通りで樹の側面に発生する部分です。
切り開いてみると、このように緻密な杢目が複雑に入り込み、複雑ながらも美しい気品を感じさせてくれます。
屋久杉泡瘤盆-特上“泡瘤”は瘤の中に水面に発生する気泡のような細かな点々が多数発生します。
屋久杉の泡瘤樹種の違いはありますが、瘤杢は小さな円の中に点が入り組んでいるのが特徴的。
一方、泡瘤は円や線が緻密に入り組み、全体を覆っているのが特徴です。
一般的に、木材業界では“瘤”と呼ばれます。
一方、屋久杉業界では、泡や泡瘤と呼ぶ方が多いです。
他の樹種の木材では泡瘤と呼ぶことはありません。
部位だろうが、杢だろうが関係なく全て、瘤と呼ばれています。
専門家によると、初めて屋久杉の泡瘤を見た人が、瘤の中に水面に発生する気泡の様だと思い、泡と呼び始めたそう。
更に、通常の瘤とは違うということで泡の瘤と呼び、泡瘤とか泡とか呼ぶようになって今の名称に落ち着いたそうです。
屋久杉の泡瘤を主に収集されている専門家の方によると、泡瘤だけで100近くの種類があるそうです。
全ての泡瘤は、表情が違うので屋久杉業界でも、泡瘤ファンは沢山います。
この美しさ、惹かれ始めると止まりません。
収集される方のお気持ち、よく分かります。
ぜひ、ご興味があれば以下に一覧まとめたので見てみて下さい。
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屋久杉の歴史(伐採~利用と、時代の変化)|グラクセン
多くの人を魅了する屋久杉の一枚板テーブルや飾り棚などの家具、壺や香炉などの工芸品など。
最近では国境を越えて、徐々に海外でも人気を高めつつあります。
今回は、その屋久杉の商品が利用されるまでの歴史と背景を掲載していきます。
1.最初の伐採(室町時代~安土桃山時代)
2.藩の財政としての利用(江戸時代~)
3.国の管理下での利用(明治時代~)
4.国家的資源としての屋久杉の利用(昭和時代~)
5.自然環境を守る時代へ(平成時代~)
1.最初の伐採(室町時代~安土桃山時代)
屋久杉が伐採され、利用されるようになったのは薩摩藩の藩政によるものが始まりだったと言われています。
1457年の頃のものと推定される切り株が確認されている事から薩摩藩が特別な建築のために屋久杉が伐採していたことが分かっています。
最古の史実によると、豊臣秀吉が京都方広寺の建築材を調達するため、島津氏の重臣(伊集院 忠棟)らが調査に来島した記録が残っています。
京都方広寺は、1595年創建なので約425年前には利用されていた事になります。
参照:wikipedia (https://ja.wikipedia.org/wiki/方広寺)1586年には薩摩藩主・島津氏が「屋久島掟」を定め、屋久島木材を許可なく島外へ持ち出すことを禁止しました。
その後、1595年には「屋久島置目」を定め、木材統制を本格的に強化するようになったことが記録されています。
2.藩の財政としての利用(江戸時代~)
江戸時代初期には、屋久杉の利用を狙いとして屋久島支配を強めた薩摩藩が、屋久杉材を年貢などに定め、支配体制を確立しました。
1640年、屋久島町安房生まれの儒学者で、島津氏に仕えていた泊如竹は、屋久島に住む島民の生活向上と薩摩藩の財政の安定を願って、屋久杉材を年貢に定める藩政提言したことが残っています。
その後、幕末期までに5~7割もの屋久杉が伐採されたと推定されています。その伐採の跡には小杉と呼ばれている若い屋久杉が誕生して、現在に受けつがれています。
切り株から新たな芽が生育する様子3.国の管理下での利用(明治時代~)
明治期に入ると、1879年に地租改正が行われ、土地に対する私的所有権が確立しました。
その結果、島の森林の8割が国有林化され、島民は下げ戻しを求めて争ったそうですが、1920年に敗訴。
国は大規模伐採に向けて動き出すことに…
一方、島民の生活安定が国で協議されたために、翌年1921年に”屋久島憲法”と呼ばれる屋久島国有林経営の大綱が制定されました。
伐採事業では島民を優先的に雇用することや7000ヘクタールの土地を住民が使える共有林とすることなどが決定されたのです。
1923年には島東部を流れる安房川に沿って、山中から港まで、木材を運ぶ安房森林鉄道が開通。沿線の小杉谷山中に営林署の事業所が開かれ、作業員や家族が暮らす集落が生まれました。
集落には小・中学校も建設され、多くの人で賑わうようになったそうです。
トロッコ道 小杉谷小・中学校の当時の様子4.国家的資源としての屋久杉の利用(昭和時代~)
当時、樹齢千年を超す屋久杉の生立木(せい・りゅう・ぼく)は伐採が禁止されていましたが、第2次世界大戦時の1941年には軍用材の臨時伐採が始まり、伐採禁止が解かれました。
戦後も伐採は続きましたが、縮小傾向に向かっていたとされています。
しかし、木材の供給不足や価格の高騰が社会問題となりました。
1954年から高度経済成長期に突入すると、更に木材の供給が必要に迫られたため林野庁は1957年に屋久杉の生立木の伐採を正式に解禁。
チェーンソーも導入されたことで、山の斜面を丸裸にする皆伐方式によって、原生林を本格的に伐採し始めました。
1966年の屋久島の国有林伐採はピークを迎え、年間18万立方メートルもの木材が市場に持ち込まれたとされています。
1972年頃より、大量伐採が行なわれる一方で自然を守る動きも活発になり、
加えて、経済発展の結果として輸入材が増え、徐々に国有林事業が大幅に縮小されるようになりました。
そのため、1970年には小杉谷事業所が閉鎖され、1975年には屋久島の1,219haが原生自然環境保全地域に指定され、
伐採しない中枢部と生態系を保全しつつ利用する周辺部に分けられ、伐採可能な木と場所の選定が始められました。
木材需要の低迷と自然保護の観点が強まり、次第に樹齢1000年以上の屋久杉の伐採は減少。
1966年の「縄文杉」発見の影響や原生自然環境保全地域の指定もあり、遂に1984年までに伐採禁止となりました。
縄文杉:樹齢3400年~7200年の巨樹5.自然環境を守る時代へ(平成時代~)
森林保護の機運が高まったことも影響し、1993年に世界自然遺産として登録。
それでも、現在屋久杉の商品が私たちの手元にあるのは、土埋木の存在が大きく影響しています。
※土埋木とは、主に江戸時代の頃に伐採したが搬出できず山中に残ったままの屋久杉の倒木のことです。
詳しくは、コチラをご参照下さい。
しかし、2019年3月の競りを最後に屋久杉は市場に出回らなくなりました。
伐採も禁止され、土埋木の搬出も禁止された今、屋久杉を山から搬出する事は一切なくなったのです。
正に、平成を最後に屋久杉や屋久島の森と資源を守る動きが始まったと言えます。
今後は、各社が在庫している屋久杉だけが全てということです。
長い歴史を経た屋久杉に触れる機会は、大変貴重なものとなりますが、その歴史背景も含めて屋久杉を手にしたいと思って下さる方が増えることを願っています。
この記事が皆さまのお役に立てば嬉しいです。
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屋久杉の生木(せいぼく)とは?|屋久杉の専門情報|グラクセン
先日の、土埋木の記事でも触れましたが、
市場で流通し、販売される屋久杉は、土埋木(どまいぼく)と生木(せいぼく)の2種類に分けられます。
生木は、土埋木とは違い、立ち木を伐採して搬出したものを指します。
立ち木の伐採が認可されていた頃で、尚且つ巨木を搬出可能にするためのトロッコなどの機械や手段が増えた際に積極的に生木は市場に出ていました。
しかし、伐採期間も短く、大きいものは当然運び出せないため生木は希少価値が非常に高いです。
そんな生木と土埋木の見た目の違いは、一目瞭然です。
屋久杉の生木一枚板 土埋木の屋久杉一枚板生木は白〜薄紅色の木肌、土埋木は黄土色の木肌をしています。
また、生木の場合は、白太(しらた)が白く、耳がきちんと残っているケースが多いです。
この点が土埋木とは大きく異なります。
生木は赤みを帯びる土埋木は、品によっては紫色や緑色に近い深く艶やかな色味が魅力的です。自然風化によって浮き出る表情が人工的には全く作り出せない自然美を育んでいます。
どちらの品も、知れば知るほど魅了される歴史があります。
屋久杉の一枚板テーブルなどの家具や工芸品を購入される際の一つの豆知識として、ぜひご活用頂ければ幸いです。
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土埋木って何?|屋久杉の専門情報|グラクセン
現在販売されている屋久杉は、土埋木(どまいぼく)と生木(せいぼく)の2つに分けられます。
今回はこの土埋木について、ご説明していきます。
『土埋木って言うぐらいだから、土に埋まってたんじゃないの?』
そう思われる方も多数いらっしゃいます。
確かに、楠やケヤキなどの木材で土中に埋まっていたものは、土埋木や神代(じんだい)と呼ばれています。
ところが、屋久杉の場合は、それらとは若干意味が異なります。
屋久杉に使われる、土埋木という言葉。
それは、江戸時代に伐採された屋久杉が搬出されず、そのまま土の上に放置された倒木を指します。
決して、土中に埋まっていたから付けられた名前ではないんですね。
江戸時代に遡りますが、山師の人々は山の生木を伐って主に家屋の屋根の材料として使っていたと言われています。
今のようにトロッコ道やヘリコプターなど無い時代ですから麓に近い場所から順に伐採し始めました。
ところが、伐っても大き過ぎて麓まで降ろせない木は、伐り倒したまま放置されてしまいました。
全て人力で搬出していたので、限界があるのは当然ですね。
搬出する際は、平木といって大きな丸太を小さな長方形サイズに切り分けていたとはいえ、高低差の激しい山を担いで搬出するのは至難とも言えます。
大きな屋久杉を小割にして運搬していたこれらの土埋木が1923年に完成したトロッコ道や、1985年頃から始まったヘリ集材など搬出手段が増えた事によって積極的に市場へ持ち出されるようになりました。
山に生えている屋久杉を伐採することが禁じられたいま、市場に流通している屋久杉は土埋木が中心となっているのです。
搬出しづらい場所に多く残る土埋木
(山中深い場所の谷にて)土埋木は、薩摩の残し木とも言われ、昔の人たちが残した貴重な財産です。
土埋木となった屋久杉は、伐られた後も成長を続けています。地面から豊富な水分を吸収して全身を苔で覆い、保湿力を高めているのです。
当然ながら芯が腐り、空洞となった丸太もありますが、その生命力の強さは他の木材とは比較出来ません。
伐採後、数十年以上経過しても腐らず残る様子また、切り倒された切り株の上から新たな杉の芽が育ち、次の世代の杉の土台になっているものも数多く発見されています。
これらを、切り株更新と言います。
切り株から新たな芽が生育する様子屋久杉は針葉樹の杉科ですので通常は、真っ直ぐ伸びていきます。しかし、その中には真っ直ぐ育たず、曲がった屋久杉も多数存在していました。
これら屋久杉は平木への加工が向かなかったため山に放置されたと言われています。
そして、この放置された屋久杉が“土埋木”として現在も取引されています。
競りの様子(土埋木) 土埋木にのみ打たれる刻印とても長い歴史を経て、いま皆様の手元に屋久杉の商品があることは奇跡に近いですね。
そして、土埋木と生木の最も違う点として、土埋木は黄土色が強く、生木は白い木肌をしています。
色味は全く違うため、すぐに判断できるかと思います。
量としては土埋木が圧倒的に多いです。
屋久杉の一枚板テーブルや飾り棚などの家具、屋久杉の壺や香炉などの工芸品など。
数多くが商品として存在していますが、皆様が屋久杉の商品を手にする時に、こういった背景を知っていると更に愛着が深くなることと思います。
皆様と屋久杉に、良いご縁がありますように!
心より願っています。
商品一覧は、こちらから
屋久杉の一枚板や壺などの商品に入る杢の一つが、“光明(こうみょう)杢”です。
この記事では、光明杢とはどういった種類の杢なのか、どういう過程で入ることが多いのかご紹介していきます。
1.光明杢とは
2.どういった入り方をするのか
3.製材後、残るのは稀少?
4.光明杢が入る過程の考察
1.光明杢とは
光明杢は下写真のように、下から上へと縦に光の筋のように伸びる杢のことを指します。
写真中央)周りよりも濃く見える部分火炎のようにゆらゆらと屈曲を繰り返しながら縦に伸びているのが光明杢の特徴です。
周りの部分よりも濃く見えるのは樹脂(油分)が多いためで、香りも濃厚です。
光の当たる角度によって反射角が変わり、光が分散することでキラキラと輝いているように見えます。
2.どういった入り方をするのか
木の木目が伸びている方向と平行して入るため、ほぼ100%縦に真っ直ぐ伸びています。
長さは様々で、3m50cmの一枚板の中全てに光明杢が一本伸びているものもありますが、短くても美しい輝きを放っています。
幅も様々あり、1cmのものから10cm以上のものまで多岐にわたっています。
同じく屋久杉で見られる輝くタイプの杢、虎杢とはどう違うのか?
虎杢)木目に対し、垂直に杢が伸びる 光明杢)木目と平行に杢が伸びるどちらも輝くタイプの杢という点では同じですが、虎杢は等間隔で光の屈折があり、杢の波が極めて一律です。
一方、光明杢は光の屈折する位置や長さや幅が不均一という点で異なります。
また、杢が木目に対し垂直に伸びるか?平行に伸びるか?という点においても大きな違いがあります。
3.製材後、残るのは稀少?
屋久杉の杢のなかでも、光明杢は特に稀有な存在として重宝されています。
その理由の一つが、管理の難しさにあります。
製材直後、光明杢は大変綺麗に板表面に出ています。
しかし、乾燥中に多くの光明杢が消えてしまう現象が発生します。
“沈む”と表現した方が適切かもしれませんが、杢が木の中にスーッと沈み込んでしまい、いざ製作する際には残っていないということが多いのです。
4.光明杢が入る過程の考察
恐らく、乾燥の影響が強いのかと思われます。
光明杢は前述したとおり樹脂(油分)量が多いことが分かっています。つまりそれは、何らかの影響でダメージ等を負い、その傷を修復するため自然治癒の過程で樹脂を豊富に出したということです。
その自然治癒の結晶が、光明杢というかたちで私たちに美しい表情を見せてくれているのでしょう。
光明杢と入り皮跡 光明杢と入り皮跡(無塗装)上の写真はいずれも、光明杢と入り皮跡の付近を撮影したものです。
入り皮は、ヒトで言うところの“かさぶた”のようなものです。木もヒトと等しく傷を負うと、内部に皮を作って保護膜を張ろうとします。
その過程において樹脂を豊富に出して傷を直そうとし、その副産物として光明杢という結晶が出来上がったのではないかと思われます。
何気なく眺める屋久杉の一枚板や壺や香炉などの工芸品。
其々の表情の中には、こういった厳しい自然環境を生き抜こうとした証が刻まれているように思います。
屋久杉においては伐採も競りも禁止されている現在、より一層これらの銘木を正しく理解し、尊重し、大切に遺していけるよう努めて参ります。
*今回使用している写真は全て、弊社が保管している屋久杉の生木から抜粋しております。
屋久杉の生木(せいぼく)とは?
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