多くの人を魅了する屋久杉の一枚板テーブルや飾り棚などの家具、壺や香炉などの工芸品など。
最近では国境を越えて、徐々に海外でも人気を高めつつあります。
今回は、その屋久杉の商品が利用されるまでの歴史と背景を掲載していきます。
1.最初の伐採(室町時代~安土桃山時代)
2.藩の財政としての利用(江戸時代~)
3.国の管理下での利用(明治時代~)
4.国家的資源としての屋久杉の利用(昭和時代~)
5.自然環境を守る時代へ(平成時代~)
屋久杉が伐採され、利用されるようになったのは薩摩藩の藩政によるものが始まりだったと言われています。
1457年の頃のものと推定される切り株が確認されている事から薩摩藩が特別な建築のために屋久杉が伐採していたことが分かっています。
最古の史実によると、豊臣秀吉が京都方広寺の建築材を調達するため、島津氏の重臣(伊集院 忠棟)らが調査に来島した記録が残っています。
京都方広寺は、1595年創建なので約425年前には利用されていた事になります。
1586年には薩摩藩主・島津氏が「屋久島掟」を定め、屋久島木材を許可なく島外へ持ち出すことを禁止しました。
その後、1595年には「屋久島置目」を定め、木材統制を本格的に強化するようになったことが記録されています。
江戸時代初期には、屋久杉の利用を狙いとして屋久島支配を強めた薩摩藩が、屋久杉材を年貢などに定め、支配体制を確立しました。
1640年、屋久島町安房生まれの儒学者で、島津氏に仕えていた泊如竹は、屋久島に住む島民の生活向上と薩摩藩の財政の安定を願って、屋久杉材を年貢に定める藩政提言したことが残っています。
その後、幕末期までに5~7割もの屋久杉が伐採されたと推定されています。その伐採の跡には小杉と呼ばれている若い屋久杉が誕生して、現在に受けつがれています。
明治期に入ると、1879年に地租改正が行われ、土地に対する私的所有権が確立しました。
その結果、島の森林の8割が国有林化され、島民は下げ戻しを求めて争ったそうですが、1920年に敗訴。
国は大規模伐採に向けて動き出すことに…
一方、島民の生活安定が国で協議されたために、翌年1921年に”屋久島憲法”と呼ばれる屋久島国有林経営の大綱が制定されました。
伐採事業では島民を優先的に雇用することや7000ヘクタールの土地を住民が使える共有林とすることなどが決定されたのです。
1923年には島東部を流れる安房川に沿って、山中から港まで、木材を運ぶ安房森林鉄道が開通。沿線の小杉谷山中に営林署の事業所が開かれ、作業員や家族が暮らす集落が生まれました。
集落には小・中学校も建設され、多くの人で賑わうようになったそうです。
当時、樹齢千年を超す屋久杉の生立木(せい・りゅう・ぼく)は伐採が禁止されていましたが、第2次世界大戦時の1941年には軍用材の臨時伐採が始まり、伐採禁止が解かれました。
戦後も伐採は続きましたが、縮小傾向に向かっていたとされています。
しかし、木材の供給不足や価格の高騰が社会問題となりました。
1954年から高度経済成長期に突入すると、更に木材の供給が必要に迫られたため林野庁は1957年に屋久杉の生立木の伐採を正式に解禁。
チェーンソーも導入されたことで、山の斜面を丸裸にする皆伐方式によって、原生林を本格的に伐採し始めました。
1966年の屋久島の国有林伐採はピークを迎え、年間18万立方メートルもの木材が市場に持ち込まれたとされています。
1972年頃より、大量伐採が行なわれる一方で自然を守る動きも活発になり、
加えて、経済発展の結果として輸入材が増え、徐々に国有林事業が大幅に縮小されるようになりました。
そのため、1970年には小杉谷事業所が閉鎖され、1975年には屋久島の1,219haが原生自然環境保全地域に指定され、
伐採しない中枢部と生態系を保全しつつ利用する周辺部に分けられ、伐採可能な木と場所の選定が始められました。
木材需要の低迷と自然保護の観点が強まり、次第に樹齢1000年以上の屋久杉の伐採は減少。
1966年の「縄文杉」発見の影響や原生自然環境保全地域の指定もあり、遂に1984年までに伐採禁止となりました。
森林保護の機運が高まったことも影響し、1993年に世界自然遺産として登録。
それでも、現在屋久杉の商品が私たちの手元にあるのは、土埋木の存在が大きく影響しています。
※土埋木とは、主に江戸時代の頃に伐採したが搬出できず山中に残ったままの屋久杉の倒木のことです。
詳しくは、コチラをご参照下さい。
しかし、2019年3月の競りを最後に屋久杉は市場に出回らなくなりました。
伐採も禁止され、土埋木の搬出も禁止された今、屋久杉を山から搬出する事は一切なくなったのです。
正に、平成を最後に屋久杉や屋久島の森と資源を守る動きが始まったと言えます。
今後は、各社が在庫している屋久杉だけが全てということです。
長い歴史を経た屋久杉に触れる機会は、大変貴重なものとなりますが、その歴史背景も含めて屋久杉を手にしたいと思って下さる方が増えることを願っています。
この記事が皆さまのお役に立てば嬉しいです。
商品一覧は、コチラから
多くの人を魅了する屋久杉の一枚板テーブルや飾り棚などの家具、壺や香炉などの工芸品など。
最近では国境を越えて、徐々に海外でも人気を高めつつあります。
今回は、その屋久杉の商品が利用されるまでの歴史と背景を掲載していきます。
1.最初の伐採(室町時代~安土桃山時代)
2.藩の財政としての利用(江戸時代~)
3.国の管理下での利用(明治時代~)
4.国家的資源としての屋久杉の利用(昭和時代~)
5.自然環境を守る時代へ(平成時代~)
1.最初の伐採(室町時代~安土桃山時代)
屋久杉が伐採され、利用されるようになったのは薩摩藩の藩政によるものが始まりだったと言われています。
1457年の頃のものと推定される切り株が確認されている事から薩摩藩が特別な建築のために屋久杉が伐採していたことが分かっています。
最古の史実によると、豊臣秀吉が京都方広寺の建築材を調達するため、島津氏の重臣(伊集院 忠棟)らが調査に来島した記録が残っています。
京都方広寺は、1595年創建なので約425年前には利用されていた事になります。
参照:wikipedia (https://ja.wikipedia.org/wiki/方広寺)1586年には薩摩藩主・島津氏が「屋久島掟」を定め、屋久島木材を許可なく島外へ持ち出すことを禁止しました。
その後、1595年には「屋久島置目」を定め、木材統制を本格的に強化するようになったことが記録されています。
2.藩の財政としての利用(江戸時代~)
江戸時代初期には、屋久杉の利用を狙いとして屋久島支配を強めた薩摩藩が、屋久杉材を年貢などに定め、支配体制を確立しました。
1640年、屋久島町安房生まれの儒学者で、島津氏に仕えていた泊如竹は、屋久島に住む島民の生活向上と薩摩藩の財政の安定を願って、屋久杉材を年貢に定める藩政提言したことが残っています。
その後、幕末期までに5~7割もの屋久杉が伐採されたと推定されています。その伐採の跡には小杉と呼ばれている若い屋久杉が誕生して、現在に受けつがれています。
切り株から新たな芽が生育する様子3.国の管理下での利用(明治時代~)
明治期に入ると、1879年に地租改正が行われ、土地に対する私的所有権が確立しました。
その結果、島の森林の8割が国有林化され、島民は下げ戻しを求めて争ったそうですが、1920年に敗訴。
国は大規模伐採に向けて動き出すことに…
一方、島民の生活安定が国で協議されたために、翌年1921年に”屋久島憲法”と呼ばれる屋久島国有林経営の大綱が制定されました。
伐採事業では島民を優先的に雇用することや7000ヘクタールの土地を住民が使える共有林とすることなどが決定されたのです。
1923年には島東部を流れる安房川に沿って、山中から港まで、木材を運ぶ安房森林鉄道が開通。沿線の小杉谷山中に営林署の事業所が開かれ、作業員や家族が暮らす集落が生まれました。
集落には小・中学校も建設され、多くの人で賑わうようになったそうです。
トロッコ道 小杉谷小・中学校の当時の様子4.国家的資源としての屋久杉の利用(昭和時代~)
当時、樹齢千年を超す屋久杉の生立木(せい・りゅう・ぼく)は伐採が禁止されていましたが、第2次世界大戦時の1941年には軍用材の臨時伐採が始まり、伐採禁止が解かれました。
戦後も伐採は続きましたが、縮小傾向に向かっていたとされています。
しかし、木材の供給不足や価格の高騰が社会問題となりました。
1954年から高度経済成長期に突入すると、更に木材の供給が必要に迫られたため林野庁は1957年に屋久杉の生立木の伐採を正式に解禁。
チェーンソーも導入されたことで、山の斜面を丸裸にする皆伐方式によって、原生林を本格的に伐採し始めました。
1966年の屋久島の国有林伐採はピークを迎え、年間18万立方メートルもの木材が市場に持ち込まれたとされています。
1972年頃より、大量伐採が行なわれる一方で自然を守る動きも活発になり、
加えて、経済発展の結果として輸入材が増え、徐々に国有林事業が大幅に縮小されるようになりました。
そのため、1970年には小杉谷事業所が閉鎖され、1975年には屋久島の1,219haが原生自然環境保全地域に指定され、
伐採しない中枢部と生態系を保全しつつ利用する周辺部に分けられ、伐採可能な木と場所の選定が始められました。
木材需要の低迷と自然保護の観点が強まり、次第に樹齢1000年以上の屋久杉の伐採は減少。
1966年の「縄文杉」発見の影響や原生自然環境保全地域の指定もあり、遂に1984年までに伐採禁止となりました。
縄文杉:樹齢3400年~7200年の巨樹5.自然環境を守る時代へ(平成時代~)
森林保護の機運が高まったことも影響し、1993年に世界自然遺産として登録。
それでも、現在屋久杉の商品が私たちの手元にあるのは、土埋木の存在が大きく影響しています。
※土埋木とは、主に江戸時代の頃に伐採したが搬出できず山中に残ったままの屋久杉の倒木のことです。
詳しくは、コチラをご参照下さい。
しかし、2019年3月の競りを最後に屋久杉は市場に出回らなくなりました。
伐採も禁止され、土埋木の搬出も禁止された今、屋久杉を山から搬出する事は一切なくなったのです。
正に、平成を最後に屋久杉や屋久島の森と資源を守る動きが始まったと言えます。
今後は、各社が在庫している屋久杉だけが全てということです。
長い歴史を経た屋久杉に触れる機会は、大変貴重なものとなりますが、その歴史背景も含めて屋久杉を手にしたいと思って下さる方が増えることを願っています。
この記事が皆さまのお役に立てば嬉しいです。
商品一覧は、コチラから